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松江城とは?/ レイク

[ 466] 松江城物語
[引用サイト]  http://www.kankou.pref.shimane.jp/more/history/k_kaze5.html

関ヶ原の合戦で敗れた西軍の主力毛利氏は、防長2国に削減されて萩に退転した。出雲を領した吉川広家も岩国へ移る。代って遠州浜松の城主堀尾忠氏が、出雲・隠岐24万石の大名となって、父吉晴とともに富田城に入部してきたのは、慶長5年(1600)11月のことである。
吉晴父子がまず感じたのは、出雲を領するために、富田城では不十分だということだった。城地が狭く、交通の便も悪く、出雲東部に偏りすぎていた。近世城郭の要件は、水と道と城地である。中世の堅城富田城も、その意味では過去のものになっていた。
吉晴父子は新しい城地を求め、宍道湖と中海を結ぶ大橋川の周辺を候補地に選んだ。当時は松江という地名はなく、川の北側は末次郷、南側は白瀉郷と呼ばれる寒村であったが、水運の便がよく、山陰道も近くを通っていた。そして40年前、末次郷に洗合城を築いた毛利元就が、ここを前線基地として、大敵尼子氏を滅ぼしたという事実が、生なましく語り伝えられていた。戦略的にもすぐれた土地、というイメージを、2人とも抱いていた。
「前方には宍道湖・大橋川、西に黒田の深田(泥湿地)、東に中海湖畔の沼沢があり、三方ともに天然の防禦の形をしています。されば北方、白鹿山あたりに物見の櫓を設ければ、備えは十分でしょう」
2人はその場ではいずれとも決めずに富田城に帰ったが、程なく忠氏は病にかかり、28歳で急死した。悲しみに沈む吉晴の後見人として、再び政務をみなければならなかった。
吉晴は築城を急いだ。亀田山に築城すれば、なき忠氏でのせめてもの供養になる。普請は慶長12年(1607)から始まり、突貫工事で進められた。普請上手の名をはせた吉晴は、さらに軍学者小瀬甫庵に縄張りを命じ、土木工事の名手稲葉覚之丞を普請奉行に任じた。
第1年次は、カラカラ橋(松江大橋)を架け直し、末次と白瀉を結ぶ幹線道路を整備した。掘り割りも造って重量資材の運搬にあてた。さらに、亀田山と赤山をつなぐ鞍部宇賀山を切り崩し、内濠の一部と塩見縄手の屋敷地を造成し、その土で田町や中原の沼沢を埋めた。当時としては、気の遠くなるような大工事である。
第2年次は城山の削平と石垣の築造。第3年次以後は、いよいよ本丸の天守閣をはじめ、各種の施設が建てられる。天守は5層6階、最上階に遠見櫓をもつ望楼式天守である。外壁は黒塗板張りの質素なものだが、各所に袋狭間(銃眼)が不気味にのぞく実践的な城で、桃山期の特徴をよく残しているとして、国も重文に指定されている。
慶長16年冬、5年の短期間で城と城下町が完成した。松江城とか千鳥城と呼ばれ、山陰道では現存する唯一の城郭建築である。だが、完成の直前、吉晴は59歳の生涯を終えた。築城に生命を燃やし尽くしたのである。
松江という地名の初見は慶長十三年(1608)である。命名者は堀尾吉晴自身ともいわれるし、帰依僧の春龍和尚や小瀬甫庵の名もあがっている。だが、春龍和尚が中国の淞江の風光を思い出しながら、それによく似た宍道湖の景色にちなんでつけたというのが、もっとも理解しやすいだろう。
堀尾氏は三代忠晴をもって断絶。ついで若狭小浜から入部した京極忠高も、一代限りで断絶した。いずれも嗣子がなかったからだ。
直政は剛直な性格で、大坂の陣では少年ながらあっぱれな活躍をし、敵将真田幸村も軍扇を投げてその勇気を誉めたという。藩主となってからは、世話好きでよくしゃべるところから、「油口の出羽」と評判された。
松平氏10代のなかで、特筆すべきは7代治郷であろう。彼は破綻に瀕した藩財政を、倹約と重税で切り抜け、後には多額の余剰金を出すまでになる。その金で高価な茶道具を買いあさった。
治郷は不昧と号し、若くして禅を学び、茶道に精進した。特に茶人大名としては当代一流で、後世不昧流の一派が成立したほどである。初めは利休の侘び茶を慕い、
と詠んだ利休の歌を、己が茶の湯の心としたが、晩年には道具茶にはしり、油屋肩衝・喜左衛門井戸などの大名物を集め、雲州御蔵帳を飾るのである。民衆を犠牲にした殿様のお遊び、との批判は当然だが、彼のお陰で、天下の名物が今日に伝えられたもの事実である。
明治4年(1871)1月、松江藩は松江城を無用の長物として、その取り壊しを政府に願い出た。その結果、明治8年城の建物は入札にかけられ、天守閣は180円で落札した。入札価格の目やすは、釘・かすがいの古鉄値段だった。しかし、松江城の消え去ることを惜しんだ旧藩士高城権八、坂田村(斐川町)の豪農勝部本右衛門らは八方奔走し、遂に落札と同額の献納金を国に納め、解体をくいとめたのである。
今日、緑の城山にくっきりとそびえる天守閣の姿を見ることができるのは、彼らの努力のたまものにほかならない。

 

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